苦節・・2度・3度・4度・・!!
ニーオトンシン 2006年5月号 倉本健治 私の息子の中学時代の親友に、あだ名が『オイポン』と言う友人がいます。 彼の家は、兼業農家をしており、ご両親が共働きで、休みの日にそのご両親が農家のお仕事をしております。 私共岡部家は、いわきに昭和50年に店を開きましたが、その折は一切と言ってよい位、知人はおりませんでした。 しかし、このオイポン家のご両親と出会い、右も左も判らない私たちの面倒をみて戴きました。 中学校での息子達の野球の応援でも、一緒に追っかけを楽しくやったものでした。 実は、オイポンは過去に数度の逆境に追いこまれました。一度目は高校入試の折、磐城高校を受験したのですが、残念にも落ちてしまいました。 内の息子は大丈夫でしたが磐高の発表の日、落ちたオイポンの帰る姿を見た息子が「お父さん先帰ってて、俺、オイポンと帰るから」と言うのを聞き、私は目から流れるものを感じました。 翌年、がんばって、オイポンは磐高に無事合格・・・ |
所が、神様は如何にオイポンに修行をしろと言うのか・・・入学後数ヶ月した頃、何とオイポンは『急性腎炎から慢性腎炎に』なり、労災病院に入院する事になりました。 結局オイポンは、この年学校に行けず、休学する羽目になりました。数回病院に見舞いに行った私とオイポンは、将来の夢や職業の事を語り合いましたが、やはり見舞いの帰り、私の目には熱いものが流れました。 同級生とは2年のハンデを背負ったオイポン・・・でも生来の“素直な性格”で立ち向かい、くさる事もなく、何と国立大学の富山大学の工学部に入学致しました。 息子は無論私達家族は人事ではなく超大喜びでした。卒業後、オイポンは大学がある富山県のある会社に入社しましたが、長男でもある彼は、やはり、いわに・・・と言う事になりました。 しかし、中々適当な就職先がなく、中学校の先生を目指す事となりました。 |
講師となり、植田中・錦中と勤めながらの受験に、オイポンは3度の挑戦するものの、落ちてしまい、4度目で今年ようやく合格しました。 講師で勤務中、私の店のお客さんの、お子さんがオイポンのお世話になってる方がおり、オイポンの人柄の良さ等を言われる度に、私達は鼻高々・・・となっておりました。 (写真は、オイポンが新任地への移動の為に挨拶に来てくれた折のものです) オイポンにとって、生徒・他の人達に、優しく接する事の出来るのは、自分の大変な苦節の体験と、又祖父母の優しさと、ご両親の人柄・面倒見の良さが、身についているからだと思います。 今後も色んな苦労があると思いますが、悩む生徒さん達の為にも、オイポン流の人生哲学で、がんばって下さい!!・・・とエールを送ります。 『悩みはつきないなー生きているんだもの』by相田みつを |